海外ブラック企業からの脱出
インド現地から日本への転職活動は難航しました。
問題だったのは、インドから日本との時差や距離ではなく、漆黒企業あるあるではありますが、そもそも転職活動をする時間が無い、という状況でした。このままだと死滅してしまう。
より良い未来を求めてこの地にやってきたというのに、死滅しそうとは何事か。
より良い未来を求めてこの地にやってきたというのに、死滅しそうとは何事か。
俺は一体何をやっているんだと心底思いました。そして悲しくなりました。
人生どうなっちゃうのよ。なんで家族にすら会えないの。
インドのカーストまじ半端ない。一刻も早くこの世界から抜け出さなければ。
空港でもなるべく目立たないようにしていました。フードかぶって。人種が違うと目立ちます。
そのため、
- とにかくインドを脱出して日本に戻る
- 日本で人間予備軍として転職活動
- 人間の生活に戻る
というプランを遂行することにしました。
漆黒企業のやることは恐ろしい。
ましてや、去っていく人間に対しての攻撃力は尋常ではないものがありました。
拉致されて荷物全部奪われて、なんて普通に考えられそうだし、想定以上のことも十分されうる。攻撃され得る対象をできる限り少なくするため、私は秘密裏に脱出活動を進めることにしました。
同僚を足蹴にする人たちの思考回路は理解しようと考えるだけ無駄。あれ?これ書きましたっけ?同じ会社で働いていた先輩日本人たちは、車内の後部座席にふんぞり返って座り、後ろから運転手を蹴るんです。男の先輩も、女の先輩もでした。
初めて見た時はまじビビりました。
脱出するにはまず、荷物。
脱出画策当時は、チェンナイを拠点としていました。
本社があるニューデリーを含め、インド国内や日本への出張が続いていたので、私がインドに持ち込んだ荷物もニューデリーとチェンナイとで分散してしまっていました。これらをまず回収しようと思いつきました。
チェンナイへの異動後、荷物は後で送ると言われ続けていたのですが、ニューデリーに人質として囚われてしまっていました。全然送ってくれない。
チェンナイへの異動後、荷物は後で送ると言われ続けていたのですが、ニューデリーに人質として囚われてしまっていました。全然送ってくれない。
今思い返せば、脱出時にわざわざ航空券代とリスクを犯してまで取りにいくべきものだったのか疑問ですが、何か必要なものがあったのでしょう。
まずは、朝一の便でチェンナイからニューデリーに飛びました。
飛ぶ直前に、ニューデリー勤務時代の運転手に連絡を取り、荷物(ダンボール数箱)を空港まで持ってきてもらうことを約束。ニューデリーの空港で荷物を受け取りました。
必要な物を取り出し、残りは空港のゴミ箱に捨てる。そして、その足でとんぼ返りでチェンナイへ戻りました。もしかしたらCAも驚いたかもしれない。あれ?さっき来たばかりじゃない?って。
インドから外貨の持ち出しは要注意
大事なのが銀行口座にある現金。
インドは海外への資産の持ち出しが非常に厳しいです。
ドルも含めて、お金の管理が非常に厳しいのです。
銀行へ出向き、引き出せる限り、米ドルにて引き出しました。
たったの3,000ドルほどだったでしょうか。
時間・労力・出費のどの点からも割りに合わない仕事でした。それでも、お金はお金。
回収できるのならば捨てていくわけにはいきません。
これで準備は整いました。
嫌がらせをされる要素は、拉致や転職先への攻撃などの可能性だけに留められていました。あとは2週間後にタイ・バンコク経由での航空券を手配。
準備を全て整えてから、その後会社へ退職願を出し、備品を返却。
電話やメールの総攻撃。
ありとあらゆる待遇が事前情報と異なっていて、とにかく入社させてしまえばこちらのもの、というスタンスが恐ろしかったです。
もっと正確に言うと、インド人よりも、その会社にいる日本人が恐ろしかった。彼らは彼らなりのカーストを作り上げていたのです。
その会社にいる日本人たちは、上位カーストだと思い込んでおり、そのように振舞っていました。
その会社にいる日本人たちは、上位カーストだと思い込んでおり、そのように振舞っていました。
移動中も後部座席から運転手に向けて罵詈雑言、運転席を後ろから足蹴にする様を見て私はドン引きしていました。完全に狂っていました。
今思い出しても怖い。。。
脱出当日は、本当に緊張の連続でした。心臓バクバク。
空港でもなるべく目立たないようにしていました。フードかぶって。人種が違うと目立ちます。
見つかって連れ戻されることを心配していました。
土日も自発的な出勤を求められ、精神的にもかなり疲弊していました。
出国手続きの際も、問題なく出国できるかどうか、ただただ気がかりでした。
インドでは、人の出入りも厳しい。出国でさえ審査が厳しいのだ。
出国審査を終えたあと、私は足早に奥へ奥へと駆けて行きました。捕まるわけにはいかない。時折後ろを振り返りながら、無事に出国できたことを喜びました。
無事に機内へ乗り込み、着席。自分を席に縛り付けるようにシートベルトを締めました。早く飛んでくれ。。。
出国審査を終えたあと、私は足早に奥へ奥へと駆けて行きました。捕まるわけにはいかない。時折後ろを振り返りながら、無事に出国できたことを喜びました。
無事に機内へ乗り込み、着席。自分を席に縛り付けるようにシートベルトを締めました。早く飛んでくれ。。。
そして機上では、通路を挟んで日本人駐在員とおぼしき40代半ばの男性が口を開けて眠りに落ちていました。
買出し休暇かな。。。
私はというと、タイにつくまでは全く安心できませんでした。
インドからの生還、そして転職
日本で家族に会えたときの喜びは、この上ないものでした。生還した、というのが本音でした。
幸い、帰国後に再就職先は簡単に見つかりました。英語力と行動力と営業経験があれば、職には困りません。数社から内定をもらいました。
自分の能力と経験を活かしながら、学んでいける業界を選びました。メーカー営業。それも父の経営する。やっぱりサラリーマンは懲り懲りだ。。。
人生の再出発。住民票も取り戻し、携帯もカードも手に入れ、新たなる人生の土台作りが始まりました。たった数ヶ月のインド。
酷い経験だったが、譲ってはいけないものを身に染みて学んだ非常に良い経験になりました。同じ失敗は二度と繰り返さない。それが2011年の終わりのことでした。
焦らない。とにかく今は人間に戻ることが大切。経営する側になるか、力ためて、いつかの海外駐在を実現するまで、精進あるのみ。状況を変えることは一瞬では出来ないけれども、進む方向は一瞬で変えられます。
あとは、一歩ずつ、確実に進む。進み続けることが大切です。
このとき、実際にアメリカ海外駐在を実現するまで、あと6年。